2019年04月23日

山ほどのしあわせ

駅に行くまで五十人の人とすれ違ったとします。
一人目の人がどなったりしなかった。ものすごく幸せだった。これで一つ。

二人目の人がどなったりしなかった。これが二つ目。

三人目の人にもどなられなかった。そうして無事に駅に着くことができた。

このようにして幸せを数えていくと、この世の悩みはゼロになってしまいます。

悩み事をいちいちあげつらう時間があったら、今、幸せだ、と言って幸せを山ほど数えあげてみれば、膨大な数の幸せに囲まれていることに気がつくでしょう。

気がついたら、実は悩み苦しみをあーだ、こーだ言ってる自分の不遜さ、謙虚でない、ということもわかってきます。

「ああ、幸せ」と思ってしまえばいいのです。それを口に出して言ってしまうと、とても幸せだということに気づくでしょう。

2019年04月22日

執着しないこと

執着がないと大喜びもないし、「うわぁ、残念だ」ということもありません。

常に淡々としています。

喜び悲しみを、越えているのです。山の頂上に登って下界の人々を見るような感じなのです。

執着がない人は、小さな子供が興奮して騒いでいるのを、たんたんと見ているような感じなのです。どんな状況に遭遇しても、子供と同じように、大喜びしたり落ち込んだりすることはありません。

だから、あらゆるものの執着から離れた者は、死に直面しても、残したもの、残された者にも執着がなく、生への執着もないので安らかな気持ちで死さえ迎えられるでしょう。

2019年04月21日

人に与えた幸運は巡りめぐって必ず返って来る

ものごとは、交換あるいは回転によって成り立っています。経済の不況は、金と物との交換がうまくいかない不均衡によって起こりますが、かといって何十年も不均衡が続くわけではありません。

運も同じで、こちらが積極的に交換を望めば、必ず返ってくるものです。

「私は運に見放されている」と思う人はもともとケチで、人に何も与えていないのです。与えなければ返ってくるわけはありません。

人に与えた運はさほど目立ちませんし、たぶん返って来る運もそう大きなものではありません。しかし、長い人生で見ると、そういった小さな運のやりとりは、意外に重要なことなのです。

よく「小さな親切運動」という催しがありますが、大きな親切を見も知らぬ他人にする人は、そうはいません。小さな親切だからこそできるのですが、これを続けていけば、必ずあなたも親切を受ける幸運に恵まれるのです。

2019年04月20日

必ずしも多くを持つことが幸せなのではありません

物を多く持つことは、幸福の条件のように思いがちでありますが、実は一つ持てば一つの苦しみが生まれ、二つ持てば二つの執着がともない、三つを持てば三つの迷いにさいなまれるものです。

しかも残念なことに、物が豊かになればなるほど、その豊かさとは裏腹に、人間の欲望は増大していくものです。もっと欲しい、もっと欲しいという不足感が心の貧しさを生み出し、破綻に追い込んでいくのです。

したがって、一枚一枚を脱ぎ捨てて裸になっていく時、はじめて生きているのではなく生かされている恵みを、実感させていただくことが出来るのです。

2019年04月19日

今ある状態に感謝

今、あなたが幸せを感じてない理由は一つしかありません。それは、自分にないもののことばかり考えているからです。

悲しみとは、お金や健康、愛、友達、場合によっては自由な時間といったものが十分にないと考えてばかりで、「不足の観点」から世界を見る習慣のことを言います。

一方、喜びは、「満たされているという観点」から世界を見ることを言います。喜びを感じている人々は、自分に力や才能があることを喜び、自分を人と比較しません。他の誰かの力や所有物、権力に威圧されることもありません。

喜びは自分の可能性、自分には無限の力があるという認識から生まれるのです。

悲しみは、「今の自分に不足している」という意識から生まれます。あなたはすべてを持っています。何が欠けているというのでしょうか。何も欠けてはいません。悲しみを消し去るには、自分が今持っているすべてのもの、手に入るすべてのものに感謝するといいのです。そうすれば、悲しみという幻は消えてしまうでしょう。