2016年09月17日

あるがままの自分からスタートする

もしこの世で何事かをなしとげようと望むのだったら、「自分が置かれたところから出発する」ばかりでなく、「自分が持っているものを活用」しなければなりません。

私たちの多くは、「自分が置かれていないところからは出発できない」し、「自分が持たないものは活用できない」という明白な事実を決して認めようとしないのはおかしな話です。そればかりか、私たちの多くは、その説を馬鹿にしようとします。

現在あるがままの自分を受け入れることは、自分を改善するのと同じくらい重要な成功の秘訣なのです。

私たちには目の色、骨格、背丈、その他多くの変えられないものがあります。あなたは自分の体格、頭脳、容貌や「背景」にがっかりしているかもしれません。

しかしあなたが使えるのは、この肉体でありこの頭脳でありこの容貌しかないのです。もし何かしようとするなら、あなたは自分の体格や頭脳や容貌をそのまま受け入れて、それをうまく活用する以外にありません。

私たちはそれらを変えることはできませんが、素直に受け入れることで、これらを負債から資産に変えることができるのです。失敗の原因となる自分の「欠点」をいいわけにするのをやめれば、その欠点は、たいていのばあい、成功をもたらす「魅力」に変わるものなのです。

2016年09月16日

第一願望が至幸至福とは限りません

願いが叶わなかったからといって失望したり、落ち込んだりすることはありません。

神様は全知全能なので、どうすれば、あなたが一番幸せになれるのか、運がよくなるかをご存知です。そのためには、今の願望が叶わない方がいいと判断し、誘導措置をとってくれたり、軌道修正を図ってくれる場合が、人生にはしばしばあります。

「今の自分の願望が叶うことが絶対幸福につながる」とは限りません。

そう考えると願望が叶わなかったときも落胆せずに乗り切ることができます。

2016年09月15日

「一時語」と「永久語」

自分が何か失敗したとき、「いやぁー、まずかったな、失敗いちゃった」そして、さらに「私はダメな人間だな」と言ったとしましょう。

さて、この言い方は大事なことを学ぶチャンスになります。前半の言い方(これは一時語と考えます)はこれで結構ですが、後半の言い方(こちらは永久語と考えます)は絶対にやめなければいけません。

つまり、前半の言い方に続く後半の言い方が、自分の人生を不幸にする方程式だということです。

すなわち、失敗をしでかしたときには、何々で失敗をした、誰々に迷惑をかけた、ということでいいのです。

誰にでも起こりうる失敗ごとから、普遍化して自分の性格まで規定してしまうことはないのです。「いつも」とか「一年中」とかは、悪いことが起きてしまったときに、決して言ってはならない「永久語」なのです。

これとは反対に、自分がかかわってやったことで、うまくいったときは、「いやぁー、よかった、よかった、うれしい」そして、さらに「私は価値のある人間だな」と考えましょう。

自分がかかわった良い結果には、「永久語」で自分に言い聞かせることが大事なのです。これが、自分の人生を幸福にする方程式なのです。

起きた事実を率直に受け止めて、考えたり言葉にするのが「一時語」です。起きた事実の結果を見て、使い分けるのが「永久語」ということです。

人は、自分の頭で考えたり、言葉に出して言ってみたりすることに、引き付けられるものです。だから、悪いことや嫌なことに引き回されることを避けるためにも、些細なことですが、言葉を使い分けることで幸せになるキッカケをつかんでみましょう。

言葉には偉大な力があります。

2016年09月14日

いつもこう在りたいものです

何事も恐れず、誠実な魂を持ち、ひたすら英知を追い求める。

いつでも人に手を差し伸べる用意をし、食い意地をはらない。

神を敬い、一人でこつこつと勉強することを愛する。

謙虚でまっすぐな心を持ち、万物を慈しみ、怒りにかられず、他の人たちがありがたがるものにも執着しない。

冷静で、思いやりがあり、人の過失を責めない。

苦しむ者たちにやさしくし、足ることを知り、欲望に振り回されない。

温和で控え目ながら威厳をもち、忍耐と不屈の精神と純粋さの入り混じった気高い人間性を備え、復讐心に燃えることもなく、決して自分を過大評価しない。

このような資質こそ、真理を愛する者がすぐそれとわかる特徴であると、「バガバット・ギータ」に語られています。

わたしたちもこうでなければなりません。

2016年09月13日

評価の結果は一人ひとりの価値観が作っている

私たちがいかに自分の見たいように見て、聞きたいように聞いているか。

これは想像以上です。

私たちは先入観の塊りみたいなものです。思い込みの束、観念の束みたいなものです。

一人の人間に対しても、百人いたら、百通りの評価があると思います。

ある人物について、個々の眼鏡、その眼鏡に合えば「素敵」ですが、合わなければ「ひどい」わけです。

対象への評価というのは、現実そのものが作っているのではなくて、その事象(人物)を見た私たち一人ひとりの価値観が作りだしているのです。

要するに、人それぞれ何にせよ見方(捉え方)が違うということです。