人生に目的地を持つと、「こう生きるべきだ」という生きる姿勢が生まれます。
まじめに、善良に、責任感を持って、崇高に、気高く、懸命に生きれば、きっとあとで褒めてもらえるし、天国に行ける。それが人間として目指すべき道だ。
そうじゃない生き方は、罪深く、この先悪いことが起きて不幸になるし、地獄に落ちる。
なんてことを、本気で信じてしまうのが目的地志向の生き方です。
これは長年、ほとんどの宗教が私たち人類を搾取してきた基本的なトリックです。
それはいつも未来に依存させています。未来志向になれば「いま」を忘れます。
そして目的地に着くように、失敗しないようにと、深刻さが生まれ、緊張が生まれ、恐れが生まれてしまいます。
自分はうまくいってはいないのではないか、自分の人生は間違っているのではないか、他の人に比べ劣っているのではないかと、比較が生まれ、嫉妬が生まれ、競争が始まります。
そもそも、人生にはそんな目的地などどこにもありません。
人生は目的を達するための手段ではなく、生きるということ自体が目的なのです。
だから、取り逃がしようがありませんし、失敗もあり得ません。失敗の人生も、成功の人生もないのです。
いまの自分の人生がどのように見えたとしても、それでいいのです。パーフェクトです。
いままでもずっと完璧だったし、これからもずっと完璧です。
私たちは、「いまここ」で完璧な存在なのに、そのことに気づかず何を達成しようとしていたのでしょう。誰になろうとしていたのでしょう。
人生に克服すべき課題なんて何もないのに・・・。
日記カテゴリの記事一覧
2012年12月13日
2012年12月12日
他人の目
自分の価値が低いからバカにされたのではありません。相手にそのような反応をする能力しかなかったからバカにされたのです。
もしその相手が愛情豊かな人であれば、同じ自分に対して、もっと温かい反応をしてくれたことでしょう。
そのときどきに見せる相手の自分に対する態度や評価は、必ずしも自分を反映したものではなく、その相手自身のそのときの「人となり」を表しているだけです。
ところが私たちはそれを、自分自身を示す情報だと思ってしまいます。人はそれぞれが持つ価値観や判断基準、そしてその瞬間の気分によって、見たいように見ています。
それがわかると、少し楽に生きられます。人がどう思おうと、自分は自分です。
もしその相手が愛情豊かな人であれば、同じ自分に対して、もっと温かい反応をしてくれたことでしょう。
そのときどきに見せる相手の自分に対する態度や評価は、必ずしも自分を反映したものではなく、その相手自身のそのときの「人となり」を表しているだけです。
ところが私たちはそれを、自分自身を示す情報だと思ってしまいます。人はそれぞれが持つ価値観や判断基準、そしてその瞬間の気分によって、見たいように見ています。
それがわかると、少し楽に生きられます。人がどう思おうと、自分は自分です。
2012年12月11日
もっと気楽に
日々の経験は、気分が創り出していると言っても過言ではありません。
幸せな気分が幸せな経験を作り出します。
自分が不幸だと思えば、みじめな一日が待っています。
深刻さは敵です、もっと気楽に。
幸せな気分が幸せな経験を作り出します。
自分が不幸だと思えば、みじめな一日が待っています。
深刻さは敵です、もっと気楽に。
2012年12月10日
人への怒りは災いを呼ぶ
人に対して怒るな。
自分の方が正しいと思い込んで、誰かをそしるな。
人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちているとか吹聴するな。
そんなことをすると、自分で災いを呼び寄せてしまう。
あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように、自分に不快なことが戻ってくる。
自分の方が正しいと思い込んで、誰かをそしるな。
人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちているとか吹聴するな。
そんなことをすると、自分で災いを呼び寄せてしまう。
あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように、自分に不快なことが戻ってくる。
2012年12月09日
思し召すままに・・・
人生には、「こうでなければいけない」というゴールや目的地などは存在しません。
目的地がないのだから、道に迷うことも失敗もありません。
「行く末に 宿をそことも定めねば 踏み迷うべき道もなきかな」
(一休さん)
目的地がないのだから、道に迷うことも失敗もありません。
「行く末に 宿をそことも定めねば 踏み迷うべき道もなきかな」
(一休さん)