2016年11月28日

大人(たいじん)の徳

日々の生活の中で汚れる肉体を持ちながら、自分の良心(人の道)をまじめに守って生活することができますか?

自分の生活の中で精神を集中することができて、それでも身心は柔軟にして、赤子(あかご)のようにいられますか?

良心の鏡に恥じないような生活を、自分はしていますか?

他人や国のために陰で良いことを自分がしていても、これをあえて他人に知られないようにできますか?

この世の多くの知識を自分が持っていても、これを他人に自慢せずに控え目にいられますか?

自分が発見したり開発して大切に守り育てた色々な物事を自分のものとはせずに、これを自慢せずに、自分が取り仕切ろうとしないことができますか?

これらのことが出来ることが、大人(聖人)の徳なのです。

2016年11月27日

正しい仕事

周りを幸せにするには、「自己犠牲」が必要である。

そう思っている人もいるかも知れません。しかし、それは違います。

周りの人を幸せにして、自分も幸せになる。それが鉄則であり、両立は可能です。

自己犠牲では絶対に長続きしません。野球選手は球を投げ、画家は絵を描き、職人は物をつくる。自分も幸せで、周りにいる人も幸せです。そこには自己犠牲などありません。

自分の仕事を精一杯やって、それが周りを幸せにする。もし、一生懸命やると他人が不幸になるような仕事だとしたら、それは、正しい仕事ではありません。

2016年11月26日

どんな状況もそれは幸せなこと、それは不幸せなことであると決まってはいない

どんな状況も、すでにその中に本質的に決まっている意味はありません。

私たちが与える意味によって、そこから得られる結果が変わってきます。ですから、私たちのハッピーな人生にとって、いかにも矛盾して見えるものでも、肯定的な意味を与えることによって、それが障害に見えなくなります。

障害と見ようとしないで「それは自分のハッピーな部分の延長なのだ。ただいまの自分の目には、どのように肯定的なのかが、まだ見えていないだけなのだ」と思うようにしましょう。

2016年11月25日

愛を与えれば、愛が返ってくる

この世界には愛が満ち充ちています。愛はは円環しています。与えればまた自分に返ってくるのです。「私は誰からも愛されて幸福です」というような人は、必ず人々に対して愛を持ち、人に親切を尽くす人に相違ありません。

「私は人に愛されないからつまらない」という人はきっと、自分が人に対して親切でなく、人を愛してない人です。

人を愛する人には、人々の顔が常に自分にほほ笑みをたたえて祝福してくれているように見えます。自然を愛する人には自然が優しく自分に話しかけてくれるように感じられ、自然が愛の微笑みを自分に送ってくれるように感じられるものなのです。

この世は、投げかけたものと同様なものが自分に返ってくるようになっています。いつも、いつも善いものだけを投げかけましょう。

2016年11月24日

そのままそこが進撃の姿勢

私たちは倒れた時、その倒れた姿勢そのままが次の進撃の姿勢になるのです。それは柔道でも剣道でも世の中でも同じことです。倒れたら倒れた位置を利用して、それが却って敵手を打ち倒す有利な姿勢となるのです。こちらが倒れたとき、敵手の下半身は防御がなくなっています。倒れた方のこっちは、手のほかに足が自由になっています。こちらの足で相手の防御のない下半身の急所を蹴上げることもできるでしょう。倒れたときには倒れなかったら得られないような有利な位置にあるのです。

「今ある位置を完全に利用することが処世の極意」です。

「今」を見逃したら機会はありません。「もっと好い機会が来たら起き上がろう、こんな倒れたときには、起き上がれるものではない」と考えるのは間違っています。

どんな逆境でも、失敗でも、不幸でも、それが私たちを一層成長させるチャンスなのです。

今、そこで与えられているものすべてを有難く感謝して受けるのです。感謝して受け入れたとき、その場に私たちの魂が落ち着くことができ、そうして最初の足場ができるのです。悪い状況に置かれたとき、感謝することなく、ああでもない、こうでもないとうろたえるのが一番いけません。うろたえていると最初の足場ができません。そこにどっしりした魂が落ち着いてから、私たちは「光」の方向へ向き変われるのです。これがよくない状況、失敗した者が再び起き上がる最初の心構えなのです。