未来に対する不安にとらわれている人は、先のことを考え過ぎてしまう癖があります。
「これで、明日は大丈夫だろうか?」
「このままでは、来年だめになってしまうのではないか?」
「自分の将来は、どうなるんだろう?」
もしもあなたも同じようなら、こういうふうに思ったらいいでしょう。
それは、今、目の前で起きていることだけに向き合い、対処することです。
明日でもなく、あさってでもなく、来年でもなく、十年後でもなく、「今」だけに集中してください。
仮に、先のことを「たぶん、こうなるだろう」と予測できたとしても、実際に起きるまでは、あえて忘れて放っておくのです。基本の考え方を、こう決めてしまうと「不安な未来」は遠のいていきます。
日記カテゴリの記事一覧
2016年01月08日
2016年01月07日
「おかげさまで」という受け止め方ができるように
本当は、待ち望んでいたことがやって来た時よりも、困ることがやってきた時に、人間は人間になれるものです。
人の世には悲しみを通さないと、見せていただけない世界があるものです。
みなさんも、いろいろな悩み、苦しみ、心配ごとを持っておられるかもわかりませんが、そのことを経験した「おかげさまで」というような受け止め方ができるようになれると、そのことを通して、深みや優しさが増し人間性が高まってゆくのでしょう。
人の世には悲しみを通さないと、見せていただけない世界があるものです。
みなさんも、いろいろな悩み、苦しみ、心配ごとを持っておられるかもわかりませんが、そのことを経験した「おかげさまで」というような受け止め方ができるようになれると、そのことを通して、深みや優しさが増し人間性が高まってゆくのでしょう。
2016年01月06日
言霊の力・・・良い言葉を選ぶこと
この世を平和に導くには言葉を清めることです。
皆が言葉を改めるならば、人同士の争いも、戦争も起こりません。まずは己の言葉の使い方を振り返ってみましょう。
人を傷つけ貶める言葉を使っていないでしょうか?
言葉は心が有ってこそ言霊となります。
思いやりと優しさのない言葉は良い言霊ではありません。
悪しき思いの強い言霊は時に凶器ともなり、良き思いの強い言霊は人を救い、癒やし、魂を清めることにもなると知ることです。
人を貶め穢し馬鹿にする言葉を決して用いてはなりません。他者を傷つければ、その分自分にも跳ね返ってきます。言霊の力を侮ってはなりません。
悪しき言霊は人の心にぐさりと刺さり、深い傷となって、時に人を殺すこともあります。
心からやさしく愛に満ち満ちた美しい言霊は、人の心を優しく包み、悲しみや苦しみから人を解き放ち、人を生かすものです。
皆が言葉を改めるならば、人同士の争いも、戦争も起こりません。まずは己の言葉の使い方を振り返ってみましょう。
人を傷つけ貶める言葉を使っていないでしょうか?
言葉は心が有ってこそ言霊となります。
思いやりと優しさのない言葉は良い言霊ではありません。
悪しき思いの強い言霊は時に凶器ともなり、良き思いの強い言霊は人を救い、癒やし、魂を清めることにもなると知ることです。
人を貶め穢し馬鹿にする言葉を決して用いてはなりません。他者を傷つければ、その分自分にも跳ね返ってきます。言霊の力を侮ってはなりません。
悪しき言霊は人の心にぐさりと刺さり、深い傷となって、時に人を殺すこともあります。
心からやさしく愛に満ち満ちた美しい言霊は、人の心を優しく包み、悲しみや苦しみから人を解き放ち、人を生かすものです。
2016年01月05日
欲から離れ穏かに暮らす
完璧に勝利を得る道とは、「何かを得る道」ではなくて、「ものから離れていく道」なのです。
「何かを得る道」にはここで終わりということはありません。しかし、離欲の道には完成があります。
ほんとうに充実するためには、ものはいらないのです。足りないから満たそうとするのではなく、ものがいらないということで、心を満たす道があるのです。
ものから離れる、離欲というところから、真の安らぎが生まれてくるのです。
必要最低限のものがあるのなら、それで十分なのです。生かされていることに感謝し、あまり何ものにも執着しないで、良いところに視点を向け穏かに暮らしましょう。
「何かを得る道」にはここで終わりということはありません。しかし、離欲の道には完成があります。
ほんとうに充実するためには、ものはいらないのです。足りないから満たそうとするのではなく、ものがいらないということで、心を満たす道があるのです。
ものから離れる、離欲というところから、真の安らぎが生まれてくるのです。
必要最低限のものがあるのなら、それで十分なのです。生かされていることに感謝し、あまり何ものにも執着しないで、良いところに視点を向け穏かに暮らしましょう。
2016年01月04日
自分の思い通りになるものはない、と気づく
私たちは、自分には子供がいる、自分には財産があると思って安心しています。けれど「自分のもの」と思っていても、実は子供や財産に、自分自身が使われているのです。
お金が欲しければ、それ相当の仕事をしなければなりません。私のお金だからといって、支払いのお金を決めることはできません。病気になったら、治療費は医者が決めることです。お金のために生きるということになれば、お金の奴隷になってしまいます。
いくら自分の子供といっても、子供には子供の生き方があります。いくら命令しても、親の思い通りにはなりません。赤ちゃんの睡眠時間などは、親の都合とは関係ありません。
自分の体はどうでしょうか。それも自由にはなりません。体が疲れていれば眠くなり、お腹も空けば、トイレにも行きたくなります。体は自分に「ああしろ、こうしろ」と命令します。「はいはい、わかりました」と動かなくてはなりません。まるで自分の体の奴隷のようです。
では、心はどうでしょうか。心こそ自分のもので、それは自由になるでしょうか。そうではありません。
「決して怒らない」といっても、怒るときには怒ります。悩みたくなくても悩んでしまいます。我が心さえも、自由にならないのです。
この世で、自分の思うがままになるものはなに一つないのです。私たちは、思うがままにならないことを思うがままにしようとして苦しんでいるのです。
何でも思い通りにしようとしなくなると楽に生きられるようになります。
あらゆるものを「受け入れる」ことができるようになると、本当に人生が平穏になります。
お金が欲しければ、それ相当の仕事をしなければなりません。私のお金だからといって、支払いのお金を決めることはできません。病気になったら、治療費は医者が決めることです。お金のために生きるということになれば、お金の奴隷になってしまいます。
いくら自分の子供といっても、子供には子供の生き方があります。いくら命令しても、親の思い通りにはなりません。赤ちゃんの睡眠時間などは、親の都合とは関係ありません。
自分の体はどうでしょうか。それも自由にはなりません。体が疲れていれば眠くなり、お腹も空けば、トイレにも行きたくなります。体は自分に「ああしろ、こうしろ」と命令します。「はいはい、わかりました」と動かなくてはなりません。まるで自分の体の奴隷のようです。
では、心はどうでしょうか。心こそ自分のもので、それは自由になるでしょうか。そうではありません。
「決して怒らない」といっても、怒るときには怒ります。悩みたくなくても悩んでしまいます。我が心さえも、自由にならないのです。
この世で、自分の思うがままになるものはなに一つないのです。私たちは、思うがままにならないことを思うがままにしようとして苦しんでいるのです。
何でも思い通りにしようとしなくなると楽に生きられるようになります。
あらゆるものを「受け入れる」ことができるようになると、本当に人生が平穏になります。