2012年10月17日

歳を重ねても、何かすることがなければいけない

人間は歳を重ねても、何かすることがなければいけません。

ある一定の歳を迎えたからといって、すべての活動を引退し、漫然と余生を過ごすなんてとんでもないことです。私たちは生きている限り、何か価値があること、社会に貢献できることをするべきです。

どんな人にも、その人なりの「社会への役立ち方」が必ずあります。
五十代の人には五十代なりに、六十代なら六十代なりに重ねてきた経験と知恵があります。

是非とも、あなたの経験と能力をフル活用して「世間の役に立つこと」をいくつになっても続けてください。

七十歳や八十歳になったからといって、人生は終わりではありません。まして、それより若い人たちには持て余すほどの時間が残っています。

「自分の人生はまだまだ続く」ということを本気で理解すれば、気持ちも前向きになり、新しいことへの挑戦意欲も湧いてきます。

いま、あなたがやるべきことは何なのか。

そのことを真剣に考え、ぜひとも一歩踏み出してください。

2012年10月16日

「老感」を持つから「老人」になる

「老感を持つ」とは、読んで字のごとく「自分が老いた」という感覚、感情を持つことです。

人は無意識のうちに「六十代とはこんなもの」「七十を越えてまで、こんなことをすべきでない」と考えてしまうものです。

「スイスへ旅行したいけれど、この歳で飛行機の長旅は厳しいか・・・」 「周囲に迷惑をかけたらどうしよう・・・」などと勝手に思い込んでしまうものです。

ですがその発想こそが一番ダメなのです。そんな「老感」を持っているから、どんどん「本物の老人」になっていってしまうのです。

歳を重ねたから老人になるのではなく、「老感」を持つから「老人」になるのです。

歳だからと理由をつけて、何もしないことが人を老人にさせてしまうのです。
「老感」なんて今すぐ捨てて、十代のような気持ちで何でも挑戦を続けるべきです。

以上のようなことを、2012年、今年8月に106歳の誕生日を迎えられ、今年も世界8カ国の32日間の講演旅行に出かけられた昇地三郎先生が仰っていました。

2012年10月15日

あげるときには、「ただ」であげること

「自分が相手に与えたことは忘れずにいて、相手が自分に与えてくれたことは忘れる」というところから、人生の不幸が始まります。

「私は、これだけしてやったのに、相手は何もしてくれない」という思いが不幸の出発点なのです。

この「してやった」という気持ちのなかには、一種の人格的未熟さがあることに気づかなければなりません。あげるときには、「ただ」であげること、見返りを期待しないことが大切です。

特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、人への愛は与えきりであり、一方通行だと思っていましょう。もし愛やお礼が返ってきたら、「得をした」と思えばいいのです。

世の中には恩知らずの数は尽きません。その恩知らずの中には、ほかならぬ自分自身も入っていることを忘れてはなりません。

「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝していく」ということが大切です。

2012年10月14日

判断しない

ものごとを常に善か悪か、正しいか否かに分類しなくなれば、意識はもっと穏かになっていきます。

「判断」という重荷を捨てた瞬間、心の中で交わされる対話は穏かになり、無心の境地に入っていけるようになります。

定義、レッテル貼り、説明、解釈、評価、分析、判断などをやめることが、いつも穏かに平安に心を乱されないためにはとても大切です。

つまり、宇宙と一体で居る、ということです。

宇宙は、ものごとは、あらゆる事象は中立です。

2012年10月13日

食の自由の境地

世間には、同じ物を食べることを嫌がったり、それがいけないように思ったりする向きがあります。

ことさらに同じ物ばかり食べる必要はありませんが、違うものが得られない時は、何日でも同じ物を食べて、少しもあきません。(差し支えありません)

それでも、少しも体にさわらないという食べ方が、本当なのです。

お米のご飯。味噌汁、漬物、お茶。年がら年中、同じものを同じ方法で煮炊きし、同じように食べます。そして、いよいよおいしく、いよいよ栄養になります。

これが、食物に対する真の自由の境地でしょう。