2017年12月15日

周囲のものすべては思考の色彩で色づけされている

人は自分が抱く思考の性質によって、低俗な領域と高尚な領域のいずれかで暮らしています。

世界が暗くて狭いと思えば、実際にそうなりますし、広い理解力があれば、それに応じて世界は広くて輝くところになります。

周囲のものすべては思考の色彩で色づけされています。

平安な心の人は平安な世界に暮らしています。

2017年12月14日

来年もまたこう在りたい

何事も恐れず、誠実な魂を持ち、ひたすら英知を追い求める。

いつでも人に手を差し伸べる用意をし、食い意地をはらない。

神を敬い、一人でこつこつと勉強することを愛する。

謙虚でまっすぐな心を持ち、万物を慈しみ、怒りにかられず、他の人たちがありがたがるものにも執着しない。

冷静で、思いやりがあり、人の過失を責めない。

苦しむ者たちにやさしくし、足ることを知り、欲望に振り回されない。

温和で控え目ながら威厳をもち、忍耐と不屈の精神と純粋さの入り混じった気高い人間性を備え、復讐心に燃えることもなく、決して自分を過大評価しない。

このような資質こそ、真理を愛する者がすぐそれとわかる特徴であると、「バガバット・ギータ」に語られています。

来年もまた、こうでなければなりません。否、いつもこうでなければなりません。

2017年12月13日

自分の置かれた環境に不平をこぼす人は、まだ一人前とはいえません

周囲の状況や環境、それらはそれ自体良くも悪くもありません。良し悪しを決めるのは、心の姿勢や態度です。

資金不足、時間不足、力不足、家族の絆による束縛など、さまざまな事情に妨げられなければ、偉大なことができる、と人は想像します。

しかし、実際には、それらによってはまったく邪魔されていません。

心の中で、それらが持っていない力をそれらに与え、それらにではなく、それらについての自分の見解に、すなわち自分の性格の弱い部分に屈服するのです。

そういう人に欠けているのは、正しい心の持ち方です。

環境を自分の資質を刺激するものとみなし、自分に対する「障害」が成功へとのぼりつめていくためのステップと考えられるようになれば、欠乏感が新たな発想を生み、「妨害物」が自分を助けてくれるものに変貌します。

心が健全で、適切に調整されていれば、環境に愚痴や不平をこぼしたりしません。

それらを乗り越えて成長するのです。

自分の置かれた環境に不平をこぼす人は、まだ一人前とはいえません。

2017年12月12日

「観念」や「思い込み」に気づく

私たちは物事をあるがままに見ているのではありません。

「観念」や「思い込み」という眼鏡を通して見ています。

このことを常に認識していれば、私たちは傲慢になることはありません。

ところが、自分はありのままに見ているつもりでいるので、あの人はいい人だ、悪い人だとか、これは正しい、これは間違っているとか、そうやって判断して裁いてしまうのです。

自分がそういう「眼鏡」をかけていることに気づけば、その眼鏡の形によってその判断が出来ていることに気づけば、そこに傲慢さは少なくなるはずです。

私たちは朝から晩まで、ひっきりなしで人を評価したり、判断したり、批判したり、いいとか悪いとか言ったりしています。もちろん心の中で、ずっとやってるんです、無意識に。

それが実は、観念から作り出されているんだってことがわかれば、少しは謙虚になります。

もう少し柔軟性を持って、出来事を見る態度が出来てくると思います。

観念に固まってしまうと、白か黒かみたいになってよくありません。

何が言いたいのかと言えば、要するに「苦しみ」というのは、その人の観念の強さ、思い込みの強さだってことです。

「こうだっ!」って決めてしまうわけですから、何が起きているかではなく、何が起きていようと、それを見る自分の態度によって、私たちの感情は決まってくるわけです。

現実をどのように見るかによって、その人の結果が決まるのです。

2017年12月11日

評価の結果は一人ひとりの価値観が作り出している

私たちがいかに自分の見たいように見て、聞きたいように聞いているか。

これは想像以上です。

私たちは先入観の塊りみたいなものです。

思い込みの束、観念の束みたいなものです。

一人の人間に対しても、百人いたら、百通りの評価があると思います。

ある人物について、個々の眼鏡、その眼鏡に合えば「素敵」ですが、合わなければ「ひどい」わけです。

対象への評価というのは、現実そのものが作っているのではなくて、その事象(人物)を見た私たち一人ひとりの価値観が作りだしているのです。

要するに、人それぞれ何にせよ見方(捉え方)が違うということです。