2015年09月22日

養生を心がけない者にとって晩年は禍(わざわい)である

病気と死とは、養生を心がけない者たちにとっては最大の禍です。

彼らにとって、病気は苦痛をともない、死は恐怖の的(まと)でしょう。とくに死については、自らの現世における罪深い生活とそれに対する神の裁きとが心から離れないでしょう。

こてに対し、極少食者たちは、そうした悩みや恐怖はいっさいありません。なぜなら、飲食における充分な節制によって病気にならない身体になっているからです。

また、死については、不可避の出来事を恐れることの愚かさがよくわかっており、むしろ他界に際しては神の恩寵があることをかたく信じているからです。

2015年09月21日

目の前の障害は固定観念を指摘するシグナル

それが嬉しいことであれ、悲しいことであれ、私たちは何かを目の前にしたとき、前後関係が断たれた「限られた事物・区切られた時間の中」に意味や価値を見い出そうとしてしまいます。が、本当は、そこには意味も価値もありません。ただ単に、そうだったのです。

これは、逆に言うと、このように言うこともできます。

現実に対してどのような意味や価値を付与するかは、すべて自己責任であり、また、そこには第三者が決して踏み込むことができない絶対的な自由がある、と。

精神世界では「世界は、自分の心の投影である」とか「世界は、すべて自分の思いどおりに形づくられる」などと語られますが、気づいてしまえば、それはとてもシンプルで明快な事実です。

なぜなら、あらゆる意味や価値は、対象にではなく、私たちのとらえ方にあるのですから。
とにもかくにも、自分の人生経験や生活習慣の中で身につけた固定観念(あらゆる決めつけ)は、想像以上に自分自身の自由を奪う足かせとなっています。

もしいま、あなたの目の前に障害があるならば、それはあなたの固定観念を指摘してくれるシグナルなのかもしれません。

2015年09月20日

この道に悔いなし・・・これでよかったんです

何十年かこの道をひたすら歩いてきました。自分の選んだ道だから、一つも悔いはない・・としましょう。

いきがかり上、そうせざるを得なかった人もいるでしょうが、自分から選んで積極的にそうしたという人もいます。どちらでも構いません。

この道を歩む以上は、これが最善だったと思うことが心を穏かにしてくれます。

人生はUターンができません。「ああすればよかった、こうすればよかった」と思いわずらったところで、過ぎ去った日々は帰ってきません。

人生はそのつどリハーサルのない本番のドラマを演じているものなのです。

悔いなき瞬間を送りましょう。

2015年09月19日

「自分に起こったことは自分のせいだ」と受け入れる

自分の不幸・不運が他者によってもたらされたものだと考えると、自分自身の人生が他者にコントロールされていることになってしまいます。

それよりも、自分に起こることはすべて自分が蒔いた種であると腹をくくったほうが、前を向いて行動できます。

何とか、その不幸・不運から抜け出して、幸せをつかもうと、努力する気持ちになれます。その分、そう考えた人は幸せに近づけます。

つまり、不幸・不運というものは、他者のせいにしているうちは自分の内に留まり続けるけれど、自分のせいだと受け入れたら、とたんに脱出への道が開ける、ということです。

2015年09月18日

原因を外にではなく内に求める

自分の環境を呪っている限り、人は決して幸福になることはできません。

「幸福とは、自分自身の努力で望みが叶うことであり、望みを達成するプロセスが他人や社会との調和を欠いていないこと」と、日本公園の父といわれた本多静六が言っていました。つまり、環境を呪った段階で既に幸福から遠ざかっている、ということになるでしょうか。

何か失敗があった時、それを外部のせいにしては決して成功や幸せを望むことはできません。失敗の原因を、環境や他人に帰着させることなく、すべて自分のせいだと考える内部要因思考で生きなければなりません。

こうしたスタンスでいると、失敗をしても、「失敗から学ぶ」ということができます。失敗を外に向ける外部要因思考では、失敗から学ぶことはできません。