一日が一生、と思って生きましょう。
今日の自分は今日でおしまい。しこりを残さない。恨みを明日に引きずらない。
明日はまた新しい自分が生まれてくる。
一日が一生、と思って暮らす。
きょう失敗したからと、へなへなすることはありません。落ち込むこともありません。
明日はまた新しい人生が生まれてきます。
それは、今日を大切にしなかったら、明日はありません、ってことでもあります。
今が一番大切だってことなです。
いま自分がやってることを一生懸命、忠実にやることが一番いいのです。
日記カテゴリの記事一覧
2016年12月18日
2016年12月17日
欲張らず足ることを知る
私たちは、蜂が花を傷めないように、心やさしく相手をいたわる態度を身につけなければなりません。また時には、蜂に蜜をご馳走する花のように、それを恩きせがましく思わず、さり気ない態度で誇りを保って、ほどこしましょう。
自分の生活の便利さのために、人間は自然を破壊しつづけ、他国の富を冒そうとして戦争を起こし続けています。
何という愚かなことでしょう。
いくら美味しくてもあまり蜜を吸いつづけると、花だって疲れるし、花びらも傷つきます。
ものにはすべて、ほどほどという限度があります。
自分の生活の便利さのために、人間は自然を破壊しつづけ、他国の富を冒そうとして戦争を起こし続けています。
何という愚かなことでしょう。
いくら美味しくてもあまり蜜を吸いつづけると、花だって疲れるし、花びらも傷つきます。
ものにはすべて、ほどほどという限度があります。
2016年12月16日
そのままを受け入れる、と楽になる
困難に遭った場合、「これが自分の日常なんだ」と考えるようにしていると、一種の暗示効果で「あぁ、こんなものか」と思えます。
逆に何故こんな苦しい目に遭わなくてはいけないのだろうかと思うと、不平不満が次から次へと口をついて出てきます。
与えられた環境を特別なものだと思わず、環境をそのまま受け入れる。
それを日常と考えて適応していくようにすることがとても大切です。
現実は自分の一存で変えることはできませんが、現実を受け入れ愚痴らず精一杯生きると、そこに道が必ず開けてくるものです。
逆に何故こんな苦しい目に遭わなくてはいけないのだろうかと思うと、不平不満が次から次へと口をついて出てきます。
与えられた環境を特別なものだと思わず、環境をそのまま受け入れる。
それを日常と考えて適応していくようにすることがとても大切です。
現実は自分の一存で変えることはできませんが、現実を受け入れ愚痴らず精一杯生きると、そこに道が必ず開けてくるものです。
2016年12月15日
「幸せ!」と言い切る
足りないものを数えていると、無意識のうちに「あぁ、幸せになりたいなぁ」と望んでしまいます。しかし、本当に幸せになるコツは、「幸せになりたい」という言葉とキッパリ縁を切ることです。
そして「幸せ!」と断言してしまうことです。
どうしてかというと、「なりたい」ということは、今はそうでないと認めてしまうことになるからです。
言葉の力は、心を動かし、行動を変えます。つまり、「幸せになりたい」ではなく、「幸せ!」と言い切ってしまえば、心もそう思い込みます。心につられて、行動もポジティブな方へと向かっていくという訳です。
「もうなっている」と言葉を変えるだけで、その状態が現実となるのです。
「私は幸せ!」と何度も何度も、自分がその気になってくるまで繰り返し繰り返し言い切ることが大切です。
そして「幸せ!」と断言してしまうことです。
どうしてかというと、「なりたい」ということは、今はそうでないと認めてしまうことになるからです。
言葉の力は、心を動かし、行動を変えます。つまり、「幸せになりたい」ではなく、「幸せ!」と言い切ってしまえば、心もそう思い込みます。心につられて、行動もポジティブな方へと向かっていくという訳です。
「もうなっている」と言葉を変えるだけで、その状態が現実となるのです。
「私は幸せ!」と何度も何度も、自分がその気になってくるまで繰り返し繰り返し言い切ることが大切です。
2016年12月14日
今をどう生きるか
死んだ後はどうなるのか?極楽はあるのか?地獄はあるのか?
お釈迦様はそのような問いは無意味だとしてお答えになりませんでした。生きている私たちに大事なのは、「生きている今、どう生きるべきか」だけです。
そこで、こう考えましょう。世の中には少なからず悪人がいます。その人たちは、来世があろうとなかろうと罰を受けます。来世がなければ現世で逮捕されたり処罰されたりします。もし来世があれば、来世においても苦しむことになるでしょう。
いっぽう、悪いことをしない善人たちはといえば、来世がなければ天国へ行くことはありませんが、彼らはすでにこの世で幸せなのです。来世があればもちろん天国へ行けます。
このように、死後の世界があるかどうかに関わりなく、私たちは善行をするべきであることは決定されます。
今をどんなふうに生きているのか。私たちが気をつけるべきことはそこだけです。
お釈迦様はそのような問いは無意味だとしてお答えになりませんでした。生きている私たちに大事なのは、「生きている今、どう生きるべきか」だけです。
そこで、こう考えましょう。世の中には少なからず悪人がいます。その人たちは、来世があろうとなかろうと罰を受けます。来世がなければ現世で逮捕されたり処罰されたりします。もし来世があれば、来世においても苦しむことになるでしょう。
いっぽう、悪いことをしない善人たちはといえば、来世がなければ天国へ行くことはありませんが、彼らはすでにこの世で幸せなのです。来世があればもちろん天国へ行けます。
このように、死後の世界があるかどうかに関わりなく、私たちは善行をするべきであることは決定されます。
今をどんなふうに生きているのか。私たちが気をつけるべきことはそこだけです。