脳は「使えば使うほど進化していく」という素晴らしい機能を備えています。だから、脳を酷使することこそ、もっとも脳を長生きさせる方法なのです。
脳を酷使することこそ最も大事な健康法の一つです。
「歳をとってあまり頭を使わなくなった」
「歳をとってから、そんな難しいことを考えても仕方がない」
言うのは、まったくの逆効果です。そんなふうに脳を甘やかすと、脳は急速に退化していきます。
107歳で亡くなったf地三郎 先生はよく「足腰よりも脳を鍛えろ!」と言われました。
脳がレベルダウンしてしまったら、足腰がいくら健康でも、人生が味気なくなってしまうからです。
年齢を重ねたら、なおさら新しいことに興味を持ち、挑戦し、脳に刺激をどんどん与えていかないといけません。
もう歳だから「やらない、知らない、興味がない」というのは大問題です。
いくつになろうと、脳は刺激を求めています。
2019年03月31日
足腰よりも脳を鍛えろ!
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2019年03月30日
歳を重ねても、何かすることがなければいけない・・・?
人間は歳を重ねても、何かすることがなければいけません。
ある一定の歳を迎えたからといって、すべての活動を引退し、漫然と余生を過ごすなんてとんでもないことです。私たちは生きている限り、何か価値があること、社会に貢献できることをするべきです。
どんな人にも、その人なりの「社会への役立ち方」が必ずあります。
五十代の人には五十代なりに、六十代なら六十代なりに重ねてきた経験と知恵があります。
是非とも、あなたの経験と能力をフル活用して「世間の役に立つこと」をいくつになっても続けてください。
七十歳や八十歳になったからといって、人生は終わりではありません。まして、それより若い人たちには持て余すほどの時間が残っています。
「自分の人生はまだまだ続く」ということを本気で理解すれば、気持ちも前向きになり、新しいことへの挑戦意欲も湧いてきます。
いま、あなたがやるべきことは何なのか。
そのことを真剣に考え、ぜひとも一歩踏み出してください。
なんていう以上のような考え方もありますが、それぞれの人の人生があります。何をしてもしなくても自由です。好きなように生きたらいいのです。
本当のところ、人生にはなんの目的もありません。
おおいなる悟りに達した人はそのことをよく理解しています。
周りに迷惑のかからないよう楽しく暮らしましょう。
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2019年03月29日
「老感」を持つから「老人」になる
「老感を持つ」とは、読んで字のごとく「自分が老いた」という感覚、感情を持つことです。
人は無意識のうちに「六十代とはこんなもの」「七十を越えてまで、こんなことをすべきでない」と考えてしまうものです。
「スイスへ旅行したいけれど、この歳で飛行機の長旅は厳しいか・・・」 「周囲に迷惑をかけたらどうしよう・・・」などと勝手に思い込んでしまうものです。
ですがその発想こそが一番ダメなのです。そんな「老感」を持っているから、どんどん「本物の老人」になっていってしまうのです。
歳を重ねたから老人になるのではなく、「老感」を持つから「老人」になるのです。
歳だからと理由をつけて、何もしないことが人を老人にさせてしまうのです。
「老感」なんて今すぐ捨てて、十代のような気持ちで何でも挑戦を続けるべきです。
以上のようなことを、2012年、8月に106歳の誕生日を迎えられた昇地三郎先生が仰っていました。
人は無意識のうちに「六十代とはこんなもの」「七十を越えてまで、こんなことをすべきでない」と考えてしまうものです。
「スイスへ旅行したいけれど、この歳で飛行機の長旅は厳しいか・・・」 「周囲に迷惑をかけたらどうしよう・・・」などと勝手に思い込んでしまうものです。
ですがその発想こそが一番ダメなのです。そんな「老感」を持っているから、どんどん「本物の老人」になっていってしまうのです。
歳を重ねたから老人になるのではなく、「老感」を持つから「老人」になるのです。
歳だからと理由をつけて、何もしないことが人を老人にさせてしまうのです。
「老感」なんて今すぐ捨てて、十代のような気持ちで何でも挑戦を続けるべきです。
以上のようなことを、2012年、8月に106歳の誕生日を迎えられた昇地三郎先生が仰っていました。
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2019年03月28日
あげるときには、「ただ」であげること
「自分が相手に与えたことは忘れずにいて、相手が自分に与えてくれたことは忘れる」というところから、人生の不幸が始まります。
「私は、これだけしてやったのに、相手は何もしてくれない」という思いが不幸の出発点なのです。
この「してやった」という気持ちのなかには、一種の人格的未熟さがあることに気づかなければなりません。あげるときには、「ただ」であげること、見返りを期待しないことが大切です。
特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、人への愛は与えきりであり、一方通行だと思っていましょう。もし愛やお礼が返ってきたら、「得をした」と思えばいいのです。
世の中には恩知らずの数は尽きません。その恩知らずの中には、ほかならぬ自分自身も入っていることを忘れてはなりません。
「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝していく」ということが大切です。
「私は、これだけしてやったのに、相手は何もしてくれない」という思いが不幸の出発点なのです。
この「してやった」という気持ちのなかには、一種の人格的未熟さがあることに気づかなければなりません。あげるときには、「ただ」であげること、見返りを期待しないことが大切です。
特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、人への愛は与えきりであり、一方通行だと思っていましょう。もし愛やお礼が返ってきたら、「得をした」と思えばいいのです。
世の中には恩知らずの数は尽きません。その恩知らずの中には、ほかならぬ自分自身も入っていることを忘れてはなりません。
「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝していく」ということが大切です。
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2019年03月27日
判断しない、比較しない、批判しない
ものごとを常に善か悪か、正しいか否かに分類しなくなれば、意識はもっと穏かになっていきます。
「判断」という重荷を捨てた瞬間、心の中で交わされる対話は穏かになり、無心の境地に入っていけるようになります。
定義、レッテル貼り、説明、解釈、評価、分析、判断などをやめることが、いつも穏かに平安に心を乱されないためにはとても大切です。
つまり、宇宙と一体で居る、ということです。
宇宙は、ものごとは、あらゆる事象は本来中立です。
「判断」という重荷を捨てた瞬間、心の中で交わされる対話は穏かになり、無心の境地に入っていけるようになります。
定義、レッテル貼り、説明、解釈、評価、分析、判断などをやめることが、いつも穏かに平安に心を乱されないためにはとても大切です。
つまり、宇宙と一体で居る、ということです。
宇宙は、ものごとは、あらゆる事象は本来中立です。
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